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◆アートトーク

第十二回 コーアン・ジェフ・ベイサ
世界の中の世界

コーアン・ジェフ・ベイサ


 キュレーターとして私が結構楽しんでいるのは、予想もしなかった文化を違う文化の中で発見することです。d’Asied’Afriqueというニューヨークと香港の両方で私が開いた展覧会では、私はほとんど知られていないアジアに住むアフリカのアーティストとアフリカ系アメリカ人アーティストを紹介しました。また私は既に2008年のブラジルの日本人移民100年祭のことも、移民日本人アーティストの有名なコミュニティーのことも知っていましたが、サンパウロの活気ある日本人街リベルダードに前回立ち寄った際、改めて驚きました。あまり知られていないメキシコの大統領ポルフィリオ・ディアスは、1888年に日本との友好親善と貿易に調印した最初の外国の指導者で、日本人移民を支援した最初のラテンアメリカのリーダーです。彼の意思表示が今も続いている証拠は、農業の町チアパス州アカコヤクア、メキシコ最大の日本人子孫が集中する地区に見うけられます。今日、1億人以上の国の人口の中で、推定1万5千人の日系メキシコ人が住んでいると思われています。この短いエッセイは、広範囲な調査というより、小さな分類の現象論に過ぎませんが、より大きなプロジェクトのための核をなすものです。

 先月私はいくつかの面白い偶然が重なって、メキシコで何人かの日本人アーティストを発見しました。私はメキシコシティ、ギャラリーEDSの勢いあるエリザベス・ディアス・ソト氏が抱える若い新進アーティスト、エミリオ・チャペラのカタログエッセイを執筆したことがあり、首都から3、4時間北西に位置するグアノファト州レオンで開かれたチャペラの美術館での展覧会に招かれました。チャペラのお気に入りのスナックのひとつは、ハワイで育った私がイソ・ピーナッツとして知っていたもので、メキシコでは「ネイ・カカフアテ・エスティーヨ・ハポネス」「ヴァ?ジニア・ハポネス」「ニシカワ・ハポネス」というブランドネームで売られていました。チャペラはまた日本人コンセプチュアル・アーティストの河原温がニューヨークに根を下ろす以前の1959年にメキシコで美術教師をしていたことも教えてくれました。エミリオ・チャペラのレオンでの個展レセプションの後、アーティストとロックミュージック・シーンのカメラマン、ルーベン・マルケス氏と私とで食事することになり、日本食のレストラン「エイキ」に行きました。私達はそこで日系メキシコ人である経営者のトワキ・エドアルド・イトウ・セルベーラ氏と彼の日本人の親友、エミ・ヤマザキ氏に会いました。トワキ氏は彼の父、エイキ・イトウ氏が画家であり、翌週に展覧会のオープニングを控えていることを教えてくれたのです。

 ある手掛かりは他へと連鎖反応を起こしていきました。私は長年の友人であるガレルモ・サンタマリアとパトリシア・スローン(今はMUACでシニアスタッフとして働いている)に会いにいき、メキシコシティの高くそびえる新しい大学付属美術館の中庭で、釣鐘の金属彫刻に注意を引かれました。部分的に氷で覆われたその作品は、キオタ・オオタ・オクザワというメキシコシティの南に住むアーティストのもので、私は彼の「Solidificacion」という石の作品をサカテカスのフェルグエレス美術館を訪れた時、見たことがあります。彼はベラクルスに住む彼の友人たちに連絡するよう私に勧めてくれました。ハラパに住み、メキシコと日本の両方で作品を発表しているリュウイチ・ヤハギ氏、同じくハラパに住む彫刻家のヒロユキ・オクヤマ氏、そしてパパントラの彫刻家、マサル・ゴジ氏。ヤハギ氏は私にグアダラハラでの最近の彼の展覧会の写真を送ってくれ、メキシコの東の地方であるチアパスに住む2人の日本人アーティストをさらに紹介してくれたのです。シンゴ・クラオカ氏とマサフミ・ホスミ氏です。またオンライン・リサーチで私はミノル・オオヒラという現在カリフォルニアに住み、1979年から1981年までメキシコのアートスクール、ラ・エスメレルダにいたアーティストを見つけました。彼は私にメキシコに住む年長の日本人アーティストの名前を教えてくれ、そのうちの何人かはすでにいなくなっているかもしれないと言っていました。タミジ・キタガワ、タロウ・オカモト、ツグジ・フジタ、コウジン・トネヤマ、オン・カワラ、ユキオ・フカザワ、キヨシ・タカハシ、そしてスケミツ・カミナガ。私は、メキシコに住む若い世代の日本人現代アーティストをインターネットで調べていて、アキコ・ミヤシタという現在オアハカに2人の娘と住んでいるアーティストを見つけました。彼女はアーティストのシザブロウ・タケダがそこに住んでいたことを知り、オアハカに惹き付けられたのです。タケダ氏によると、彼はメキシコに移った最初の日本人アーティストではないとのことです。「タミジ・キタガワ(1894-1989)は1920年代にメキシコシティに来ており、「メキシカン・ルネッサンス」に欠かせない存在のひとりとなっていた。キタガワはメキシコ、タスコにあった有力な「オープンエア」(野外)アートスクールのディレクターを務め、それが次世代の日本人アーティストを魅了した」そうタケダ氏は話しています。さらなる調査で1979年にはメキシコシティのギャラリー・エンクエントロで「メキシコの日本人アーティスト」というグループ展が開かれたことが明らかになりました。ギャラリーの現在の住所と展覧会のカタログについて調べたのですが、それはわからずじまいでした。

 メキシコで2番目に大きく人口約400万人を擁するグアダラハラは、姉妹都市である京都市から贈られた日本庭園を誇らしく所有しています。その最近の文化イベントでは、400年に渡る日本とメキシコの友好と表現の自由を祝し、エクス・コンベント・デル・カルメンにおいてタロウ・サカリア、クニオ・レスミ、ヒロユキ・オクムラ、リュウイチ・ヤハギ、ミホ・ハギノら日系メキシコ人アーティストが発表しました。この現代作家のリストに、エミリオ・チャペラはメキシコシティで活躍する新進アーティスト、ジロウ・スズキを加えました。さらにリストに加えるのに、ミホ・ハギノはリネ・ハヤシとイチロウ・イリエ、エンセナーダのアリシア・ツチヤ、ロベルト・シミズと彼の息子ロベルト・シミズ・キノシタ、カズミ・セクエロス、ルイス・ニシカワ、ケンタ・トリイ、タマナ・アラキ、ヒミコ・タカザワ、そしてタダシ・ウエイ。グアダラハラのアシダ家族はさらにギャラリストとキュレーターをリストに加えます。カルロス、ジェイミー、そしてモニカ。この中の何人かは2世3世の日系メキシコ人です。

 「メキシコのアートの将来は、今のこの経済情勢で考えられているより明るいのです。なぜならアメリカがウォールストリートに頼っているのとは違うから。それに一部ではその事実が原因で、ここではアート収集に対して違う考え方があるんです。」そうメキシコシティのギャラリスト、エリザベス・ディアス・ソト氏は語っています。アートシーンが享受している活気が、これら日系メキシコ人アーティストの混成の活力と才能の証明であるのなら、彼等の成功に限界はないはずです。

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