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第十回 ノグチ美術館、キュレーター ボニー・ライチュラック |
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ボリンゲンの旅
私は以前イサム・ノグチ氏のアシスタント、現在では彼の美術館のキュレーターを務め、ノグチ氏が1949年からボリンゲン財団の助成金で旅行した際に制作された莫大な数のドキュメンタリー写真とドローイングのアーカイブをまとめております。2003年、それらのドキュメントの一部を紹介する機会があり、「ボリンゲンの旅」と題した展覧会を開催致しました。この旅は6年間続きました。ライカ(ドイツ製カメラ)を手に、ノグチ氏はアートのもうひとつの意味を発見する機会を得ました。ニューヨークから東へパリへ、イタリアへ、中東、インド、インドネシア、そして日本へと、一度だけではなく何度も世界を周り、ノグチ氏が「余暇の環境」と言っていたアート、その意味、その使われ方、そして社会との関係を研究し探し求めました。
1949年までには原子爆弾の意味するところは明らかでした。この不運に思える世界で、ノグチ氏は20世紀の西洋文化におけるアートの状況に切迫したものを感じていました。皮肉にも、彼の作品はまさに世の中に受け入れられ成功を手にしようとしていたところでしたが、当時の彫刻に対する過小評価、つまりアートは建築のためのデコレーションとしてだけ機能するのものという状況に対処する準備ができていませんでした。ノグチ氏の彫刻に対する熱望は、「スタジオアートよ、目覚めよ。」と彼が称したように限界を超えるものとなっていたのです。
ノグチ氏にとって「余暇」とは、瞑想であったり、参加であり、公共的に楽しむことができる空間に焦点を当てることでした。それは心のレクリエーションのための瞑想的、儀式的な空間の使われ方に特別な配慮がなされた空間であり、幼年期の遊び場でもありました。ノグチ氏のこの話題についての興味は、異なった文化において何が「余暇」の時間であり空間であるのか、そしてアートはそこにおいてどんな役割を担っているのかにへの問いに集中しました。
彼の描いたドローイングや撮影した写真は覚え書きのようで、それは創造的な表現であるだけではなく、文化、儀式、社会、そして彼の考える「余暇の環境」の象徴である空間の記録です。葬式やダンス、集会や人の住んでいない中庭や寺など、それらの写真やドローイングはある人にとってはのぞき見的で平凡なものですが、ノグチ氏にとってそれはスケッチや記憶の手段であり、彼の作品に直接的、間接的に示されてれているように重大な意味を持ち、芸術の精神的重大性に対する彼の信念を立証するものなのです。
ノグチ氏のヴィジュアルの日記である何ヤードもある大量の35ミリフィルムから作られた多くのの白黒ネガは、数十年もの間スーツケースに保管されていました。何百枚ものドローイングとスケッチは描かれた後、ほとんどの間日の目を見る事はありませんでした。ノグチ氏は何年かに一度はこれらの日記やスケッチを眺め、いつか「余暇の環境」についての本を書きたがっていました。しかし悲しいかな、彼はその計画の実現には至りませんでした。 ボリンゲンの旅の展覧会とアーカイブにまとめられた作品は、これからも私の興味をそそり、心に残り続けるでしょう。いつかこの企画でもう一度別のかたちの展覧会ができたら、そして彼が最後まで完成出来なかったノグチのボリンゲン・プロダクションとして編集し、出版できたらとよいなと思います。
ノグチ美術館、キュレーター
ボニー・ライチュラック
2009年6月
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